Surrounded By Football -サッカーライターが考える-

自分は、サッカーを中心にスポーツ全般を扱う場所に軸足を置きつつ、書くこと以外にもさまざまな仕事をしています。スポーツに囲まれて毎日を送る事ができて幸せです。ここでは、サッカーのことも書きますが、それ以外の話題も。アウトプットの場として用意したものです。シェアして頂けましたら喜びますので、よろしくお願いします。

僕は、クラスメートをいじめていた経験があります。

 先日、BS1でいじめについてのディスカッションが展開されていた。内藤大助さんや中川翔子さんなどいじめられた経験のある人や公立学校の校長らを15〜16歳くらいの中高生達(おそらく)が囲み、白熱教室で有名なマイケル・サンデル教授がファシリテーターを担って議論を進めるというもの。この番組に全て目を通したという訳ではないし、自分が見た30分弱の時間にたまたまそういう議論がかわされていただけかもしれないが、どれもが被害者目線でものを語っていた。もしこういう状況になったらどうするか、親や先生には言うべきか。などが中心であった。そこでふと思ったのが、前述した通りの"加害者目線で議論はなかなか展開されない"ということと"いじめた側であった経験を持つ著名人はなかなか現れない"ということ。特に前者に関しては前々からぼんやりと思っていた。各メディアがいじめをテーマにして発信する文章や映像、ディスカッションなどはほぼその被害を被る側に向けてのメッセージだったり、そういう人達の立場にたって展開されるというパターンが多い。"被害を受けている側をどうケアしていくか"、”周囲がどのようにして手を差し伸べるか"などが重要であるのは間違いないし、殺人事件などと違って被害を被る期間が長いため、最悪の事態を免れることが出来るという点で加害者分析よりも被害者分析に重点が置かれているのかもしれない。

 

そうだとしても、この世の中にはいじめの被害にあった経験を持つ人よりも、いじめに加担した人のほうが多いだろう。学校などでいじめを受ける生徒1人に対して加害者側が1人ということはまずありえない。それはおそらく"いじめ"と呼ばれるものではない。多くが加害者として加担して成り立つものがいじめなので、被害者の数よりも加害者の数のほうが世の中には圧倒的に多いと、これは自信をもって言える。

 

そこで後者、つまり"加害者目線で議論はなかなか展開されない"という事実に焦点を当てたい。明らかにいじめの加害者のほうが多いはずなのに、なぜメディアがいじめをテーマに記事を書いたりそれを扱った番組を編成するときはマイノリティである被害者経験ばかりを持つ人が現れるのだろうか。マジョリティである加害者側の意見や心理を議論し、分析したほうが遥かにいじめの予防に役立つのではないかと僕は考えている。ただ、「自分はいじめの加害者でした」なんてアイドルや俳優・女優など華やかな舞台に立ってる人間にとっては口が裂けても言えないということは共感できるところもある。そうだとしても、もし経験を持つ人がいるのなら声をあげて欲しい。これは芸能人だろうが知識人だろうが、コメンテーターであろうがだれでも良い。後述するいじめの規模の大小はあれど、さすがに経験のある人はいるだろう。

 

それでもなかなかそういった声が出てこないのには"いじめ"という言葉から想定されるその内容の重さに問題があるのではないだろうか。先述したBS1の番組ではいじめの被害に遭う高校生のアニメ(フィクション)が作られていたが、これがなかなか陰湿なものだった。トイレの個室に入っているときにバケツで水をかけられたり、ノートや教科書に悪口を書いたり、机を隠される、など。はっきり言うとこれは相当重い。自分自身が中高生のときにこんないじめは目撃したことはないし、他校のことだとしても耳にしたこともない。自殺に追い込まれるほどのいじめの中にはこういう類のものが含まれているのかもしれないが、こういう事例ばかりをだすことが「加害体験の告白」のハードルを上げているように感じ取れる。「自分にはいじめに加担した経験があるんですよ」例えばこういう言葉を発したら、聞き手は上記のアニメで挙げられたような行為を発言者がしたと思うかもしれない。昨今のメディアによる"いじめ"の取り扱われ方が"いじめ"というものをとても陰湿なものと定義しているような気もする。(ただこの辺で一応言っておくが、メディア批判を全般的に行いたいと思っている訳ではない。)議論をするときの一つの例としてそういった重い形のいじめがあるというということを強調するのは悪いことではない。ただそれはその場の議論に置ける一つのケースとして留めておくべきである。

 

いじめと言えど、その幅は広い。やっている側がふざけたつもりでもやられる側が不快に感じて悩むようであればそれはいじめであるかもしれないし、明らかに悪質な行為を受けていても気にする気配がないようであればそれはいじめではない。最終的には加害者の悪意の存在の有無と被害者に強い不快感や嫌悪感が生じるかどうかが一つの指標だろうか。

 

そしてここで今日のブログのタイトルにかかる告白をするが、僕自身、いじめに加担した経験はあると思っている。中学時代、少しお調子者だったクラスメートを一部男子でグルになってシカトをし続けた。当時流行った言葉で言うと”ハブ”というものだろうか。これをいじめかどうか判断するかは読者の皆様の判断に委ねるが(そもそも読者はそんなにいないが)、少なくとも被害を受けていた友人は窮屈そうな学校生活を送っていたので、いじめと捉えられるだろう。ちなみに、そのお調子者の彼とは今は普通に仲が良い。

ただ、そこに純粋な悪意があったかというとそうではなかったかもしれない。確かにそのクラスメートに対して少しの苛立ちを覚えることはあったものの、集団で徹底して何か行動を起こして不快感を与えようとは思っていなかった。それよりも大きかった要因が、クラスを仕切る存在の友人の意向に沿わなければ次に自分に対して何が降り掛かってくるかわからない、という一種の恐怖感の存在だった。それに加え、被害者の存在が学校という空間において心理的なヒエラルキーを生み出し、上部に自身が立った気分になれるという何の意味もない虚栄心や支配感もこのいじめに加担した理由として挙げられる気がする。

 

特に前者に関して今思えばなんてことないのだが、その当時は敏感だったのだろう。これら自分がいじめに加担した理由はありきたりなものかもしれないが、これ以外にもいじめに走る要因というものは多く存在するだろう。そういったものを一つでも多く集め、検証していくことがいじめの予防に繋がってくるのではないだろうか。

 

間違いなく被害者の数倍は存在する加害者が声をあげることが、解決と言わないまでもいじめの事例の減少に繋がると信じたい。

 

 

 

では、今日はこんなところです。

 

 

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